私が体験した阪神大震災 | ぐるっとママ神戸アンバサダー│Naomi

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2024.01.15

私が体験した阪神大震災

1995年 1月17日

阪神大震災がおきたのは
私が小学校1年生の時でした。

東灘区で被災した時の話です。

今でも思い出すと涙が出てきてしまいます。

話し出すと涙が出てしまうので
深く人に話したことはありません。

文章にするのが精一杯です。


この機会に覚えていることを文章にしてみました。

読めそうな方だけ読んでください🙇‍♂️


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地震発生時、私たち家族はまだ寝ている時間でした。

車に乗って激しく揺れている夢が突然始まったと思ったら
「なおみー!」という姉(当時小4)の声で目が覚めました。

起きると、まだ暗くてあまり見えなかったけど
部屋の中の家具がほとんど倒れていて
隣に布団で寝ていた姉の上にも大きな棚が倒れて動けないというのはわかりました。

狭い部屋にギッシリ家具を置いていたので
歩くスペースもないような状態だったと思います。


私は、とにかく物をどけないと!と思い
目の前にある家具たちを動かそうと手を伸ばしましたが
伸ばした瞬間、左腕に激痛が・・・

倒れた棚の扉の硝子が割れてたのでしょう。
私はそこに腕を突っ込んでしまったようでした。


あまりにも痛くてその場で大泣きしたのを覚えています。


暗闇の中 激痛の走った左腕を触ると
パックリと大きく切れて開いているのが
見えなくてもわかりました。
出血もすごかったと思います。

痛い…痛すぎる!

もう何が何だかわからない状態でした。



部屋では倒れた棚の中にあったオルゴールが
衝撃でなのか、勝手に流れていました。

その曲はすごく悲しく、怖く感じました。


何が何だかわからないまま
その場で腕を押さえて立っていることしか出来ませんでした。

間もなく父が扉の向こう側から
「大丈夫かー?!」と言っているのが聞こえ
家具が邪魔して開かなかった扉を蹴り開けたのか
扉を破壊して助けに来てくれました。



父に抱っこされ、3階から2階へ...
2階には大きな水槽で飼っていた金魚たちがいましたが
水槽は割れ、床で苦しそうに跳ねていたのを覚えています。


そのまま1階行き外に出ました。
外はいつの間にか少し明るくなっていました。


まだ何が起きたのかわからない。

でも周りの家がほとんど崩れていて
4階くらいの高さにあったJRの高架が下に落ちていました。


隣の家は何故か2階の窓がすぐそこにあり
1階がグチャグチャに潰れていました。

2階の窓からパジャマのまま出ようとしてしている隣の人達を
父が助けにいきました。

すると グラっとまた大きく揺れ
隣の人たちが「きゃー」と叫びました。


何度も何度も揺れる地面は本当に恐ろしかった。

余震が続く中、どうにか脱出出来たよう。

いつの間にか父が家の前に車を移動させていて
私と姉と弟は車に乗せられました。

外では何処を見ても大人たちが慌ただしく動いていました。
誰かにこの街は攻撃されたのかな…と思っていました。


私は自分の左腕を見るのが怖くて
ギュッと押さえたまま黙って車に乗っていましたが

家の中が血まみれになっているのを父が見つけ
「誰や!?怪我してるんは?!」と聞いてきました。


姉が「なおみや!!」といい
父と母がどこ怪我したんやと心配そうに寄ってきました。


ずっと押さえたままだった手を離して
「ここ…」と  腕を出しました。

初めて見る自分の傷口。
想像よりも大きく深く切れていて怖くて
ごまかすようにわざと 苦笑いをしたのを覚えています。

絆創膏なんかじゃ治らない傷だとは分かっていましたが
当時は病院に行くのが怖くて
包帯を巻いていたら皮膚がくっついてくれるんじゃないかと
何度も願いました。

....

地震発生から何時間も経った後だったのか
すぐかは分かりませんが

近くに住む同い年の友達のお母さんが
歩いて うちの前に来ました。

そして私の母にしゃべりかけました。

「めーちゃんもあーちゃんも
家が潰れて…ダメだったみたい」

母が声も出ない声でびっくりしていたのを覚えています。



めーちゃんは、道路を挟んで向かいの家に住んでいて
クラスも同じで、一緒に登校していた友達の1人でした。


そして一緒に仲良くしてくれた
その子のお姉ちゃんのあーちゃんも。


「めーちゃんが死んだん…?」



当時小1だった私にも死は理解していたと思います。


....


私たち家族は家の前で カセットコンロを使い
冷蔵庫にある物を調理して過ごしました。

電気が通っていない冷蔵庫は
ただの大きな箱でした。


父がこてっちゃんを焼いてくれましたが
焼きながら
「情けないな…」と父が涙を流し

「やめてよ、子供の前で...!」と母が言っていたのを覚えています。

初めて見る父の涙。

ただ事では無い
大変な状況だということを感じました。



何日、家の前と車で過ごしたかわわかりませんが
その後は近くの高校のグラウンドで車中泊をしました。

グラウンドでは豚汁だったかな?
配っていたので並びました。

水をもらいに小学校まで歩きました。

保健室では切れた腕を消毒だけしてもらいました。

知らない人達がおにぎりを配ってくれました。



ちゃんとご飯を食べだしたのは何日後だろう。
お風呂も何日入れなかったかな....



腕の傷を縫ったのも数日か経ってからでした。
私の左腕には全部で8針の大きな傷が残りました。



その後は

私と姉は被害がまだ少ない方だった神戸市北区の親戚の家に
1ヶ月くらいかな?
住ませてもらい
その間は従姉妹と同じ小学校に通いました。


叔母ちゃんは私の腕の傷を隠すために
長袖の体操服を用意してくれました。


私たちが親戚の家にいる間に
父と母は家を片付けたりしてくれていたのでしょう。

元の小学校への登校を再開したのも何ヶ月後だろう...

崩れた家や瓦礫まみれの家
ぼこぼこの道を通って学校へ行っていました。


教室にはもちろん めーちゃんはいません。


他にも何人も来てない子がいました。
家が潰れたり、色んな事情があったんだと思います。
みんな神戸を離れるしかなかったんだと思います。



私たち家族は幸いみんな無事で
家も半壊ですんだので、神戸から離れることもなく過ごすことが出来ました。


この体験談は 阪神大震災のほんの一部、一場面です。

私の知らないような もっと辛い想いをした方もたくさんいると思います。






あれから29年!



阪神大震災があった頃は
携帯電話なんてみんな持っていない時代で
何の情報もないまま
みんな必死だったと思います。


阪神大震災は朝の5時46分に発生しました。
連休明けの火曜日でした。

これが小学校に行ってる時間だったら?

もっと真夜中だったら?

想像するとほんとに怖い…。


大人になって改めて地震のことを思い出し
当時は何もできなかったけど
きっと想像もできないくらいに
大人の人たちが頑張ってくれていたと思います。

こうやって神戸が綺麗な街に生まれ変わったのも
いろんな人の協力とみんなが助け合えたからだと思います✨



地震大国と呼ばれる日本に住んでいるから
また もしかしたら大きな地震がくるかもしれない…。



大人になった今は2人の子を持つ母になり
何があっても子供たちを守らなきゃいけない!
しっかり地震の備えはしておこうと思います。





めちゃくちゃ長い文章になってしまいました。

思い出せることを並べただけの文章ですが
これが私が体験した 阪神大震災です。

最後まで読んでいただきありがとうございました。


そして
能登半島地震により
亡くなられた方々にご冥福をお祈りします。

被災された皆様、心よりお見舞い申し上げます。




 
ぐるっとママ神戸アンバサダー   Naomi

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