ともに…29年の思い | - ぐるっとママ神戸アンバサダー│くみこ

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2024.01.17

ともに…29年の思い



阪神淡路大震災から29年。

当たり前に来ると思っていた明日は
その日、ドーンという音で目覚めた。

私と弟と母は2Fで寝ていて
父と愛犬は1Fで寝ていた。

とりあえず、トイレに母が私達を集め
揺れがおさまるのを待った。

電気はつかない。

揺れがおさまり、父を大声で呼ぶと
『無事だ!』と声が返ってきて
落ち着いて下に降りようとすると、
階段がネジ曲がっていてうまく降りられない。

なんとか降りると…
愛犬が、父に抱きかかえられて
震えていた。

母は、キッチンにある食べ物をかきあつめ
私は、パジャマの上に制服を着て
制カバンに、教科書と筆記用具を入れて
母からもらった水筒と合わせて
慌てて逃げた。

外に出ると、家の1Fが半分崩れており
今にも1Fはなくなりそうになっていた。

向こうから火が見える。
商店街が燃えていたのだ。

『とりあえず…逃げよう』
父は車にエンジンをかけ、私達を乗せた。

2日間ほど車でいた。

車にいてはダメだ。
避難所にいかなければ…

父の言葉で避難すると。

着いた避難所では、廊下までいっぱいの人。
どこも家族が避難できる場所はなかった。

親戚との連絡がようやく付き
そちらの場所は無事だったので
子供達のみ居候することになった。

父と母は避難所に、なんとか2人だけならと
受け入れてもらったのだ。

そのうち、親戚が使っていなかった
別宅が無事だと確認し、父と私が
その別宅へ避難。

母と弟は、避難所へと分かれて避難した。

しばらくして避難所に4人受け入れてもらえて
全員で寒い体育館に避難することに。

まさか…その時は、1年もそこにいるとは
思わなかった。

私が覚えているのは
震災当日と、この避難所へ行くまでの事。

しばらくの記憶が全くない。

避難所での生活は、冷たいお弁当と
パンだった。でも食べる物がないより
マシだった。

避難所にいないと罹災証明書がもらえないと
デマも横行した。

そのうち、
避難所であった中学校を束ねる
リーダーになった先生(当時37歳)が、
自分の家にも帰らず避難所で
生活する人の為に職員室を災害本部とした。

その素晴らしい先生がいたおかげで
運動場に炊き出しテントが張られ
全国からのボランティア受け入れを
始めた。

私が思うのは、災害の時は
いかに速く対応できる人材がいるか…

いかに速く動けるか。

今、能登半島地震で
子供達の集団疎開の判断を呼びかけた
市長の決断は、親も子も辛い判断を
迫られたかもしれない。

でも、それで親は少しは安心して
動けるのだ。

親戚の家に避難していた時、
なぜ離れなければ…とか
地震さえなければ…とか
無事なんだろうか…とか

悩んだりした。

今、親になって思う。 
集団避難には、賛否あるかもしれないが
私は、選択を用意してくれる行政が
あることを素晴らしいと思う。



あの当時、全くそういうのはなくて
とにかく家族で考えて行動するしかなかった。

神戸モデルが、間違いなく活きている。

どの自治体が、どの自治体を
フォローするのかも、すでに決まっている。

SNSやWEBフォローのメンバーが
神戸市から派遣されている。

今は、無事というのも、情報も
LINEで得られる時代だ。

彼らは、雑魚寝で、まともな食事はないと
知った上で、即決で行きます!と
答えたそうだ。

神戸オレンジの消防隊員の方々も
他の自治体の消防隊員の方々も
同じ状況でも、助けたい。助けてみせるとの
使命で動いてる。

今、私達ができることは
忘れないこと。ともに立ち上がろうと
励ますこと…



実際、阪神淡路大震災で
避難所に来てくれた全国の当時の
ボランティアメンバーが
偶然に集まった。

別に会おう!と連絡したわけではないけど。
この追悼式の日に皆んな鉄人広場に、
集まったのだ。

LINEで皆んなと繋がれた。
知っているメンバーがいたら
追加していこうと声をかけて。

来年は30年だ。

その時は、皆んなで集まろう!
何かをしようと。

皆んな10代だったり20 代だった。
もう40代、50代。

リーダーをしてくれた先生は66歳。

忘れられない辛い経験だったが
無くしたものばかりではなかった。

その時の絆は、30年へとつながっている。



 

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